出雲地方では太鼓のことを鼕 (どう) と言います。
平安時代、宮中で行われていた正月行事「左義長」(さぎちょう) が全国各地に伝わり、出雲地方では「とんど」行事として歳徳神 (としとくじん) を祀り、鼕を叩いて生きて生かされていることに感謝しながら、新しい年の五穀豊穣や平安を祈願していました。
【江戸時代】
1607 年堀尾吉晴公により松江が開府されてから、城下では小正月に「とんど」行事に合わせ、「歳徳神」と記した額を先導に、歳徳神の宮 (神輿) を担ぎ、鼕・笛・チャンガラを囃し、五穀豊穣を願って町中を練り歩いていました。これは旧松江市及び旧八束郡以外の地域では見られない独特の形態であると言われています。
各町内では、七代藩主松平治郷 (不昧ふまい) 公 (1752 年~ 1818 年) のころに造られた歳徳神の宮を祀る為、江戸末期には二階建の組み立て式「宮宿」(みややど) が建てられ、2 階には歳徳神の額とお宮を飾り、1 階では子供たちに開放して子供たちに鼕を叩かせていたそうです。この組み立て式の「宮宿」も今では唯一北寺町に現存するだけとなり、平成 26 年には松江市有形民俗文化財の指定を受けています。
当時の鼕の大きさは「宮宿」の下に納まるほどの 50cm くらいの小型のもので、これがのちに、低く小さかった鼕台は宮宿と結合して大きくなり屋根がついた形へと変遷していきました。
1724 年五代藩主松平宣維 (まつだいらのぶすみ) 公に、京都の伏見宮から岩姫が降家された折、町民が競って大きな鼕を造り、それを打ち鳴らして祝ったのが鼕行列の始まりとの一説もありますが、明らかではありません。
【明治時代】
明治初年の旧松江城下には、33 の町内があり、各町内に「宮宿」がありました。
明治維新の頃には歳徳神祭も派手になり、1 月 15 日には俄 (にわか) と称して男子は女装、女子は男装をし、三味線・尺八・月琴・笛などを奏で、また歌い、獅子舞なども繰り出し一芸あるものは競って参加していました。一方で、酔余狂態を演じ弊害も出たために、明治 3 年には県から「左義長の歳徳神を祭るは別段のことにつきなるたけ質素にいたし宮は屋台に飾り置き子供たちチョウサイとよび鼕をならして乱舞するは苦しからず」との布達があり、質素に行うことが求められましたが、結局明治 6 年にはすべてが禁止されました。しかし、明治 8 年には再び祝祭行事や宮行列など行うことが許され、これが契機となり徐々に形を変え、現在の鼕行列となり松江市の風物詩となっています。
明治天皇の生誕日 11 月 3 日「天長節」を全国で祝った折、松江では宮練りと鼕練りの日程を分けて行なって以降、鼕練りが単独で行うようになりました。
【大正時代】 《~鼕行列の始まり~》
大正 4 年 (1915 年) 大正天皇の即位の御大典の折、各町が鼕の大きさ (直径 120 ~ 150cm 、当時石橋三丁目と横濱町の 2 町だけが約 180cm の大鼕を所持) を競い、また鉄の車輪を付けた屋根付きの鼕宮を造り、11 月 15 日に 38 町内 55 台が市内を行列して祝いました。これが現在の鼕行列の始まりです。
鼕宮は本来、歳徳神の宮の仮宮であり、白木社造りの宮宿を模して造られ、その正面には歳徳神の額を掲げます。
【昭和時代】
大戦後、鼕行列が再開されたのは昭和 22 年 (1947 年) の新憲法施行の時でした。物のない時代に 24 町もの鼕宮が勢ぞろいし、町中に鼕を鳴り響かせたことは敗戦に打ちひしがれた人々を大変勇気づけました。
この貴重な文化遺産を守り次代に伝えていくために、鼕を保有する町内によって昭和 35 年 (1960 年)「松江市鼕宮保存会」が結成され、毎年 11 月 3 日に開催される松江祭に各町交替で鼕行列が行われるようになり、現在「松江市鼕行列保存会」として鼕、鼕宮、鼕行列の保存・伝承に努めております。
【平成時代】
平成 9 年に組み立て式の松江市の鼕宮が完成し、以後、山陰夢みなと博、高松まつり、大阪御堂筋パレード、鳥取しゃんしゃん祭りなど県外へ鼕を披露する機会が増えました。
平成 18 年 (2006 年) からは開催日を、それまでの 11 月 3 日から 10 月の第三日曜日に変更し、松江の秋の祭りとして定着しております。
平成 25 年 6 月 9 日には、出雲大社の 60 年に一度の平成の大遷宮の奉祝行事において、石橋一丁目、北堀三区、末次町、南寺町、鼕友会が八足門前にて鼕を奉納いたしました。
平成 27 年には大正天皇即位の御大典の鼕行列から 100 年目、鼕行列 100 周年を迎えております。
平安時代、宮中で行われていた正月行事「左義長」(さぎちょう) が全国各地に伝わり、出雲地方では「とんど」行事として歳徳神 (としとくじん) を祀り、鼕を叩いて生きて生かされていることに感謝しながら、新しい年の五穀豊穣や平安を祈願していました。
【江戸時代】
1607 年堀尾吉晴公により松江が開府されてから、城下では小正月に「とんど」行事に合わせ、「歳徳神」と記した額を先導に、歳徳神の宮 (神輿) を担ぎ、鼕・笛・チャンガラを囃し、五穀豊穣を願って町中を練り歩いていました。これは旧松江市及び旧八束郡以外の地域では見られない独特の形態であると言われています。
各町内では、七代藩主松平治郷 (不昧ふまい) 公 (1752 年~ 1818 年) のころに造られた歳徳神の宮を祀る為、江戸末期には二階建の組み立て式「宮宿」(みややど) が建てられ、2 階には歳徳神の額とお宮を飾り、1 階では子供たちに開放して子供たちに鼕を叩かせていたそうです。この組み立て式の「宮宿」も今では唯一北寺町に現存するだけとなり、平成 26 年には松江市有形民俗文化財の指定を受けています。
当時の鼕の大きさは「宮宿」の下に納まるほどの 50cm くらいの小型のもので、これがのちに、低く小さかった鼕台は宮宿と結合して大きくなり屋根がついた形へと変遷していきました。
1724 年五代藩主松平宣維 (まつだいらのぶすみ) 公に、京都の伏見宮から岩姫が降家された折、町民が競って大きな鼕を造り、それを打ち鳴らして祝ったのが鼕行列の始まりとの一説もありますが、明らかではありません。
【明治時代】
明治初年の旧松江城下には、33 の町内があり、各町内に「宮宿」がありました。
明治維新の頃には歳徳神祭も派手になり、1 月 15 日には俄 (にわか) と称して男子は女装、女子は男装をし、三味線・尺八・月琴・笛などを奏で、また歌い、獅子舞なども繰り出し一芸あるものは競って参加していました。一方で、酔余狂態を演じ弊害も出たために、明治 3 年には県から「左義長の歳徳神を祭るは別段のことにつきなるたけ質素にいたし宮は屋台に飾り置き子供たちチョウサイとよび鼕をならして乱舞するは苦しからず」との布達があり、質素に行うことが求められましたが、結局明治 6 年にはすべてが禁止されました。しかし、明治 8 年には再び祝祭行事や宮行列など行うことが許され、これが契機となり徐々に形を変え、現在の鼕行列となり松江市の風物詩となっています。
明治天皇の生誕日 11 月 3 日「天長節」を全国で祝った折、松江では宮練りと鼕練りの日程を分けて行なって以降、鼕練りが単独で行うようになりました。
【大正時代】 《~鼕行列の始まり~》
大正 4 年 (1915 年) 大正天皇の即位の御大典の折、各町が鼕の大きさ (直径 120 ~ 150cm 、当時石橋三丁目と横濱町の 2 町だけが約 180cm の大鼕を所持) を競い、また鉄の車輪を付けた屋根付きの鼕宮を造り、11 月 15 日に 38 町内 55 台が市内を行列して祝いました。これが現在の鼕行列の始まりです。
鼕宮は本来、歳徳神の宮の仮宮であり、白木社造りの宮宿を模して造られ、その正面には歳徳神の額を掲げます。
【昭和時代】
大戦後、鼕行列が再開されたのは昭和 22 年 (1947 年) の新憲法施行の時でした。物のない時代に 24 町もの鼕宮が勢ぞろいし、町中に鼕を鳴り響かせたことは敗戦に打ちひしがれた人々を大変勇気づけました。
この貴重な文化遺産を守り次代に伝えていくために、鼕を保有する町内によって昭和 35 年 (1960 年)「松江市鼕宮保存会」が結成され、毎年 11 月 3 日に開催される松江祭に各町交替で鼕行列が行われるようになり、現在「松江市鼕行列保存会」として鼕、鼕宮、鼕行列の保存・伝承に努めております。
【平成時代】
平成 9 年に組み立て式の松江市の鼕宮が完成し、以後、山陰夢みなと博、高松まつり、大阪御堂筋パレード、鳥取しゃんしゃん祭りなど県外へ鼕を披露する機会が増えました。
平成 18 年 (2006 年) からは開催日を、それまでの 11 月 3 日から 10 月の第三日曜日に変更し、松江の秋の祭りとして定着しております。
平成 25 年 6 月 9 日には、出雲大社の 60 年に一度の平成の大遷宮の奉祝行事において、石橋一丁目、北堀三区、末次町、南寺町、鼕友会が八足門前にて鼕を奉納いたしました。
平成 27 年には大正天皇即位の御大典の鼕行列から 100 年目、鼕行列 100 周年を迎えております。




