雑賀・相生町の由来
相生町は雑賀町地区の中心に位置しています。国道 9 号線相生町交差点より国道 432 号線を南に「馬の背坂」まで道沿いの地区をいいます。雑賀町の名は、「紀州」今の和歌山県と縁が深く、堀尾吉晴公が紀州の精鋭鉄砲隊「雑賀衆」を配下に連れ多くの功を賞し、松江城築城時に現在の雑賀本町筋に住まわせたことから雑賀町という町名が定着したといわれています。戦国末期から太平の世に移る街づくりの過程で「足軽町」「鉄砲町」の町名が延享年間 (1744 ~ 1748) 松江城下之図に記されており、現在の雑賀町原形が整っていったようです。
明治二十二年 (1889) 松江市制施行と共に「鉄砲町」「足軽町」を統一して現在の雑賀町とされています。現在の通りが「相生町」と呼ばれる由来は定かではありませんが、明治四十一年に歩兵第六十三連隊が古志原に創設された折に作られた新道は、昭和 7 年から 11 年にかけて道路拡幅と相生町十字路以北、作橋から新大橋へ向けての県道開設により現在のような路面になったとされています。全国でも「相生」は二つのものが出会う地点や町が合併したときに共に栄えるという事で名付けられた地名の例もあるように、当時の人々がそのような想いで「相生町」と名付けられたのかもしれません。
参考資料 / 雑賀郷士史編纂実行員会「雑賀の今昔」より
雑賀相生町の鼕
相生町の鼕台は格式が高いとして重んじられてきた入母屋唐破風造り (いりもやからはふづくり) の屋根を配した鼕台です。大正 15 年に旧鼕宮が造られ、昭和 11 年に鼕を含め様々な道具が新調されたことが記録として残っています。その後も修繕を繰り返し町内の人々から大切に守られています。
鼕台の飾りは他の町内には見られない伝統を感じさせる御簾飾りと提灯飾りの 2 種類があります。4 尺 5 寸 2 連の鼕で鳴りの良さに定評があり「しゃぎり」のみをコバチは入れずシンプルで緩やかに力強く叩きます。概ね 3 年に 1 回の割合で松江祭鼕行列に参加をしています。近年では、雑賀公民館で行われている文化祭に鼕台を展示し地域の子供たちが鼕に触れる機会を提供するなかで、将来に亘り地域の伝統行事としての継承や育成の一助として相生町鼕保存会がその役割を担えるよう努めています。